【映画】「或る終焉」を観て

死生観をテーマにした映画は、それなりの覚悟をしてみるようにしています。体調がいいときに。

今回観たのは『或る終焉』(原題「CHRONIC」)。日本での劇場公開は2016年。松山での公開はなかったのでDVDになったら観ようと思っていた作品です。

『或る終焉』


・製作:2015年,メキシコ・フランス合作
・制作、監督、脚本:ミシェル・フランコ
・日本公開:2016年5月
・上映時間:94分
・原題:『Chronic』
・第68回カンヌ国際映画祭で脚本賞

予告編


〈あらすじ〉

息子ダンの死を機に、別れた妻と娘とも顔を合わせなくなったデヴィッド(ティム・ロス)。終末期の患者をケアする看護師として働く彼は、患者の在宅看護とエクササイズに没頭するだけの日々を送っていた。患者たちに必要とされ、デヴィッド自身も彼らとの濃密な関係を率先して育む中、末期ガンに苦しむマーサ(ロビン・バートレット)から、頼みを聞いてほしいといわれる。それは彼に安楽死を手伝ってもらいたいというものだった。デヴィッドは、ある秘めた自身の過去と患者への思いの間で激しく葛藤する。 〈シネマトゥディより〉

客観的視点


主人公のデヴィッドは終末期患者のケアを献身的に行います。患者にとっては、とても心強く頼りになる存在です。両者の信頼関係を際立たせるように、劇中では看護のシーンが多く、かつセリフや感情表現を極力排除した演出になっています。

メロドラマ的ではなく、ドキュメンタリーっぽく見せています。主人公のデヴィッドに感情移入させることよりも客観的視点で観てほしいという監督の意図があるようにも感じます。

二面性


そんなデヴィッドには息子の安楽死に手を貸した過去がありました。その行為への葛藤に悩まされていることが徐々にわかります。その出来事から彼は心身のバランスを崩したのではないと想像できます。

仕事に没頭すること(患者と二人の空間にいること)だけが、心の安らぐ時間のように映ります。そんな彼ですが、おやっ?と思わせる一面も顔を見せます。患者の糞尿の処理には懇切に行う一方で、プライベートでは異常な潔癖症であったり、看護していた女性患者が亡くなった夜、バーでとなりの客に妻が亡くなったとウソをついてみたり。

終始、緊張感とともに不穏な空気が漂います。徐々にデヴィッドの動向に観る側は引きつけられていきます。

誰しもがそうであるように、彼も完璧な人間などではなく、闇を抱えながらも仕事には責任をもって取り組む姿は実在する人物を追っているようなリアリティーすら感じます。そして、彼に感情移入させようとしない監督の意図を感じながら、彼を通して、命とはなんだ?という問いを考えずにはいられなくなります。

ラストシーンからはじまる


(監督:ミシェル・フランコ)

この映画はラストシーンからの4分間が最も大切な時間になります。少なくとも私はそうでした。(4分間とは、エンドロールが流れる時間。)

思いがけない出来事が起こるラストシーンの後、無音のエンドロールへ。ラストシーンは監督から観客への問いだと感じました。「あなたはこの結末から何を考える?」と。エンドロールを無音にしたのもそのためではないかと。

そして、ラストシーンの解釈も人それぞれです。その人の死生観によって映画の捉え方がまるで変わると感じました。エンドロールを眺めながら、まだ心臓がバクバクして落ち着かないなか、命のことを考えました。きっとこの時間に感じたことや考えたことが命に対する「本音」じゃないかなと後になって思います。

デヴィッドと患者のように「死」について深く長い時間を費やして答えを見出そうとする人がいる。また、一瞬にしてその時を迎えてしまう人もいる。自ら安楽死を望む人もいる。

死の多様性を見せることで、観る側の死生観を揺さぶっているように感じます。だれにでも平等に訪れる「死」だからこそ、自分ごととして観られる映画です。私は観て良かったと思えたので、あなたにもおススメします。

おまけ

この映画を観た翌日、私はいつものように「いとうせいこう×みうらじゅん ザツダン」というラジオを聞いていました。

みうらじゅん氏が「死ぬ直前に言うつもりの最期の言葉は、今から声に出して練習している」と言うのです。なるほどなー、面白いことを考える人です。

ちなみに、みうらじゅん氏の最期の言葉は「あー楽しかった!!」だそうです。

いとうせいこう×みうらじゅん ザツダン+

The following two tabs change content below.

谷口 一也

はじめまして。谷口一也です。1979年愛媛県伊予市(中山町)で産声を上げました。 マイペースで我が道を行くB型。 育児と鍼灸に精を出す毎日です。 自宅での映画鑑賞やカフェ巡りが趣味。